2022/11/25

11月、日記を断続的にしか書かないことの口実を、日本語での書き仕事があるからだとか初旬に風邪を引いて体調を崩したからだとか適当に述べ立てていたけれど、下旬にさしかかったいま思い返してみれば、書かないことの根底にはおそらく、日々の生活について反省せずに過ごしたいという気持ちがあったのではないかと思う。

毎日のように日記を書くためには、毎夜自分の過ごし方を省みる時間をとるだけでなく、どのようにきょうの出来事を書こうかと考えながら日々を過ごすことになる。身の回りに起きたことをさまざまなスケールで捉え直し、自分の立ち位置を反省しつづけるというのは結構ハードなことだ。たとえば、国際ニュースがこんなふうに報じていた日に自分はこんなことをしていたなどと対比して、日々の生活になにかしら意義ある視点を持ち込んでみる。

だが、現実には、そんなことを考えこまなくても暮らしていけるような日常がある。スーパーに行けば食材を買うのに困らないし、ビールのロング缶は日本よりも安く手に入る。町中を行き交う人びとは、2月以前と比べれば国外移住で大幅に減ったのだろうが、具体的に誰がいなくなって誰が残っているのかを識別することはできない。ニュースによれば、部分動員令が出た9月21日以降、約70万人がロシアから国外に移り住んだという。ペテルブルグ都心部でも空き住居が増え、供給に比して需要が低下したことから賃料が前年比で10%以上下がったようである(Мобилизация наводнила петербургский рынок аренды свободными квартирами - Ведомости.Санкт-Петербург)。間違いなく、ペテルブルグという町の内実は変わったはずである。しかし、そうした量的な調査を知っていたとしても、普通に思える日常が目の前にあるのも確かなのである。カフェでは人びとが談笑しているし、映画館では国内外の作品が上映されており、ガレリアに行けばMacの製品を買うこともできる。クリスマスを目前にして、目抜き通りには装飾が施され、煌びやかにライトアップされはじめた。

こんなふうに平穏な日常を過ごせるように町はきちんと整備されている。たとえ同じ時間に、ここから決して遠くない戦場で多くが破壊されていたとしても。その破壊がまさにいま暮らしている国家によって為されているにもかかわらず。なんと恐ろしいことだろうか。しかし、そうした日常と非常のあいだのとてつもない懸隔を、以前と変わらないように整えられた生活環境にいながら意識することはとても難しい、というよりも、そうした大きなスケールをほとんど忘却して、身近でミクロな日常に集中して、なんてことのない生活を送っているという安心感を得ているように思う。そして、おそらくは外から来た留学生である自分だけでなく、ここにずっと暮らしている人びともそんなふうに感じているのではないかと思う。非日常に耐え続けられるほどわたしたちは強くない。悲惨なニュースを読んでも、報道される残酷な世界を直視する時間はそう長くは保たない。そう書くとき、いま、日常が壊され続けている場所がまちがいなくあり、そこで暮らしている人びとがいるという現実を考えないではいられない。そうした耐えがたい現実に、こんなふうに微妙な距離から触れようとすることが、つまり、安寧な日常のなかにいても気が狂れそうな思考の領野を少しでも確保し続けることが、いまの自分にできるわずかばかりの悪への抵抗だと、そう思い直す。

そう思ったのもゆえなきことではない。思考のきっかけをもらったのだ。先日、日本の歴史を研究しているというロシア人学生のコムナルカに招かれて宴席をともにしたとき、部分動員令の話題になった。友人の男子学生と、彼といっしょに住んでいる同年代の男はともに健康状態に異常なく、適齢で、いつでも徴兵される可能性があると言う。目の前の彼らがまさに動員対象であることに動揺して、なんと応答していいかわからず、部分動員は10月末に終わったってニュースがあったけど……と私が言うと、あれは法的効力がないものだ、大統領が発令したものだから、たとえばセルゲイ・ショイグ国防相などの他の誰かが動員終了を告げたとしても、実際には今後どうなるかはわからないままなんだと返される。そうした事情は、実のところ、日本語のニュースで読んですでに知っていた。慰めにもならないとわかっていたのに、沈黙に耐えられずにひどいことを言ってしまったかもしれないと後悔している。ニュースで読んで知っていた動員の事情が眼前の友人たちの口から発せられたとき、あまりにも重苦しいその事実に打ちひしがれながら、自分たちの現実を語る声を聞いている自分が動員の対象ではないというギャップを痛切に意識せずにはいられなかった。