2022/10/18

すっかり元気を失っていた。雨が降っているから……などの言い訳は雨続きが日常のペテルブルグでは厳禁もいいところ。まあ天候以外の理由があるといえばあるような気がする。おおまかにいって人間関係のことだ。悩みの種の大半は誰かとの軋轢にあるのが常だし、発想の萌芽も他者とのあいだにしか生まれない。でも面倒な人付き合いはほんとうに嫌な気持ちになる。

閑話休題。夜、ドムラジオというところで開かれる映画にかんするレクチャーを聞きに行った。月に一度のペースで行われる連続講義形式で、今回は2回目のようである。レクチャーをするのはЕвгений Майзельという映画批評家で、初耳だったけど『Сеанс』や『Искусство кино』なんかの映画雑誌にもけっこう寄稿しているみたい。で、今回の講義では、映画芸術における視覚の体制について話すとのことで、どんどん早口になるロシア語を十全に聞き取れた自信はまったくなくて、いいところ30%程度しかわからなかったのだけど、どうやら«видение»と«смотрение»を分けて、前者の方に重きを置いて、映画芸術における見ることを考えたいようだった。«видение»とは«принять»であり、個別的で、見ようと欲することであり、視覚に現れる動きや明滅だと言っていた(と思う)。アヴァンギャルドな映像作品はカメラという科学技術としての見ることを考えるための最適な実験だとして、ジョーダン・ベルソンの『Samadhi』(1967)を紹介していた。また、質疑応答で、アヴァンギャルドな実験は世界の現象についてのフォルムとアンフォルムの探求だと言っていた(ような気がする)。あと、しきりにИскусство видеть - оно...と言っていて、視覚芸術についてまとまったことを言わんとしているのだろうけど(僕の理解が曖昧なのもあいまって)繰り返すたびに何が言いたいのかわからなくなっていった。と、あやふやな理解しかできなくて情けないばかりだけど、連続講義の終わりくらいにはもうちょっと聞き取れるようになっているだろうか。