2022/11/07

11月はこれくらい暢気なペースで書いていくことにする。

実際、週末から月曜日の今日にかけて外に出る用事は常にあったのだが、それ以外はほぼ何もできないというような状態だった。すべては一週間近く太陽が顔をのぞかせない天候が悪い。あとちょこちょこ氷点下になる日もあって、いよいよこの新しい環境に無意識に抵抗しているのかもしれない。さまざまな生活条件に慣れはじめ、これまでの習慣や体質が崩れていく。崩れ去らぬように心身がふんばって疲弊する。一ヶ月という定められた時間の区切りも、そうした感覚を促しているように思う。

閑話休題。土曜日にはВасилеостровский地区を散策する。サンクトペテルブルグ大学の所在しているこの地区の雰囲気が好きだ。中心部に比べて車通りが少なく、海に面しており、暖色の街灯がなめらかに照らす歩道を歩いている時間はかけがえのないものだと思う。願わくばもう少し暖かければ、と心の中でささめくが、まあこういう気温もペテルブルグを歩くという経験の一要素である。夕方からの散策で、いっしょに歩いたロシア人の友人曰く、この灰色の感じがペテルブルグだよ、とのことで、言われて改めて見てみるとまさしく灰色で笑ってしまった。ただ、日が暮れていくなかで曇り空が青色に染まる瞬間がわずかながらあって、その時間帯が本当に美しかった。

日曜日は夜にアレクサンドリスキー劇場にて、レールモントフの「仮面舞踏会」を観劇する。戯曲だけど、音楽の無いドラマパートもしっかりあって、簡素でストイックな良い舞台だったと思う。とくに仮面を被ったダンサーたちの動きが良くて、音楽に合わせた機械的な動きで主人公アルベーニンの心情をたくみに表現していたように感じた。あのダンスが、ハチャトゥリアンの音楽をいかに解釈したかという演出家の最大のポイントだろう。

そして今日は、映画館でタルコフスキーの«Страсти по Андрею»(1967)を観て、そのあとドムラジオで電子音楽のコンサートという詰め合わせ。«Страсти по Андрею»とはイコン画アンドレイ・ルブリョフを主人公とした、後に«Андрей Рублёв»という名で1971年に正式に(?)公開される作品の、検閲される前の最初のバージョンである。検閲前が205分で、数度の削除や再編集を経て最終的に186分になったのだが、そのあいだにも国際映画祭での上映に際してその都度出品された«Андрей Рублёв»という名前で尺の異なるいくつかのバージョンがあるらしい。実は検閲前のバージョンもフランス版のDVDで観ることができるのだけど、せっかくならと劇場で観ることにした。比較のために直前に最終版も観て(そのために今日は授業に遅刻しました)、今回もっとも違うなと気づいたのは「祭日」の音の処理だった。それと、全体を通して追加・削除されたシーンを確認しながら、いずれのバージョンにも使われている場面でも微妙にカメラや俳優の動きが違うのに気づいて、当然なんだけど、やっぱり何テイクも撮り直しているんだよなと撮影現場を想像した。検閲で厳しく批判されたのは主に、馬や犬などの動物が出てくるかなり残酷なシーンなのだけど、それ以外もけっこう違う。

«Страсти по Андрею»と«Андрей Рублёв»を比べるとき、ともすると検閲前のほうが監督の意図したようになっているから完全版で、最終的なバージョンは四方から手が加えられてしまった悲劇の産物だとみなしてしまいがちだが、そういうことはないだろうし、その逆でもないと思う。どちらに優劣があるかと判断する手前で、異なる音響と映像の組み合わせによって生まれる異なる効果を考えるほうがおもしろいと感じる。また、どの組み合わせがどのような効果を生むと判断されるかどうかは、個別具体的な状況によるわけで、モスフィルムでの会議議事録とか制作過程の資料を巨細に読まないとなんともいえないところもあるけど、そうした映画の意味作用の政治的文化的条件を分析するのもおもしろいことだろう。それにしても、こんなふうに同じ撮影素材で異なるバージョンがあることを考えると、映画ってほんとうに不思議で、どれが正解なのかというのはきわめて不可解なものだと思う。まあタルコフスキーは、撮影されたショットが正しく撮られていればおのずから正しいモンタージュに導いてくれると言っているわけですが、その「正しさ」にも当然なにかしらの成立条件があるはずで、いかにそれを客観的に記述するかが最大の問題なのである。ところで、ドムラジオで電子音楽のコンサートはあまりおもしろくなかったので割愛します。