2022/10/21

授業では民間伝承のピョートルとフェブロニアについての物語について読んでいた。農村出の敬虔なフェブロニアという貧しい女性が、悪魔の手により重篤の危機に陥ったピョートル公爵に、民間療法的なふしぎな力で治療する代わりに結婚を求め、そうして二人は愛と忠誠によって強く結ばれ、死後もともに眠るのでした、というのが大雑把なあらましだ。この二人のあいだにあるつながりは何だと問われて、ロシア思想についての乏しい知識から「共苦 сострадание」ではないでしょうかと返すと、そのとおりだと満足してくれた。ただ、期待されていた答えを言ってみたはいいものの、この概念については正直よくわかっていない。解説のなかに「自己犠牲 самопожертвование」という言葉も出てきて、そうしたところがロシア文学ひいては文化の真髄だと、まあ教科書的な説明をうけながら、今のこのロシアの日常のなかでこういう話を聞くとずいぶんアクチュアルな話だとぼんやり考えていた。そんな単純に言えることではないにしても、こうした概念は裏を返せば、さまざまな困難や圧力のなかを辛抱強く耐え忍んで生きていこうという心性があると思う。それはまた、強い権力に正面から抵抗するのでもなく、かといって従順に心酔するのでもない、抑圧に身近に接していながらものらりくらり日々を過ごすという、こちらに来てから目の当たりにしている多くの人々の生き方にもどこか通じているように感じる。とくに論拠もない連想だけど……でもたとえば、政府系の支持率調査にみなが内心を文字どおりに答えていて軍事行動に賛同していると考えるのはナイーブにすぎるだろう。

そんなことはどうでもよくて、きょうもカフェで資料読み。Coffee 22という店名、居心地がいい。Дина Мусатоваというタルコフスキーと同学年だった人のインタビューを見つけたので読んでみると、一年生のときタルコフスキーが酔っ払いの浮浪者を題材にした訳のわからない作品を撮ったことであやうく監督クラスでC評価をもらいそうになっただの、学生時代に撮りためていたタルコフスキーの記録映像をソクーロフに貸したら即日紛失されて今日まで見つかっていないだの、赤裸々な話ばかりが出ていておもしろかった。真偽は定かではないが、ソクーロフのせいで失くなったらしい貴重なアーカイヴ映像、もしひょっこり出てきたなら観てみたいものである。

夜はギャスパー・ノエ『Vortex』を観る。いつ日本で上映するかもわからないし、どうしても観たくなって、ロシア語字幕で上映されるところを探した。ロシアでは、外国映画は多くの上映館が吹き替えで上映する。ネフスキー通りの中心にあるアヴロラというところにした。はじめていわゆるシネコン的な(といっても2つしかスクリーンはないが)映画館に入った。ちゃんと情報みてなかったのだけど、上映前にとつぜんスクリーン前の舞台が明るくなって、なんだとおもったら誰かが前口上をし始める。名乗らなかったけど、話を聞いていると、どうやらヴィクトル・マージンのようだ。短い前口上のあと、こんどはギャスパー・ノエとヴィクトル・マージンがZOOMかなにかで対談している映像がスクリーンで流れはじめる。『Vortex』とおなじように二画面にスプリットしていて、ちょっと洒落た演出だなと思う。ノエが、アルツハイマーという病について、また、自身が脳卒中で倒れたことや父が本作を気に入ってくれたことなどを話し、脳死の問題に触れたり幻覚と夢は違うと言い切ったりしていた。マージンのほうが、やっぱり死というのが重要な問題ですよねと言うと、ノエが僕にとっては死は二次的なことで、人間の生にもっとも関心があると返し、対してマージンが、ところで死についてラカンはこう言っていて……と終始すれ違っていたのに笑った。

作品は、重度のアルツハイマーを大きなテーマにしているけど、なにかうっかりと忘れたり勘違いしたりしてしまうような人間の世界認識の変質についての映画だなと思った。そしてそれは、二画面に分割された大きなスクリーンを見るという強い負担を強いられつづけるる観客の映画経験にも敷衍できることだと思う。ただでさえ映画をすべて見聞きして記憶するというのは不可能だが、その不可能性を二画面ははっきり観客に自覚させる。両方の画面を同時に視野に入れて、注意深く見ることはできない。見逃したり忘れたり、勝手に物語を繋ぎ合わせたりしてしまうことを避けるのはとても難しい。日常に大小問わずスクリーンが溢れかえった現代でこそ、本作の不気味さは内容のみならず形式において十全に発揮されていることだろう。あと、まばたきのようなカットの演出はやっぱり発明だなと思った。基本的にはスプリットしている二画面が、同じ場所をほんのんちょっとしかずれていない角度から撮った映像になることがたまにあって、それが主に家族3人で話し合う場面で、完全に分かり合えないけれど離れ難い親密さがたしかにあるという感覚をうけて感動してしまう。家という場所と家族の歴史や記憶を強く結びつけるセリフがあって、『惑星ソラリス』の引用があって、そして本作も家で終わるという流れもベタで良い。それにしても非常に重く疲れる映画鑑賞だった

2022/10/20

今日はあまり引き締めすぎずにいこうと午後は寮に戻ってゆるゆると文献読みを試みていた。まあロシア語読むのも疲れるしと日英の論文をざっと読むだけ、くらいでだらだらしていたら夕方17時くらいに急に警報が鳴り響く。一瞬、空襲か何かかと勘繰るくらい警戒したけど自動音声のアナウンスを聞くと火災報知器らしい。それでも十分まずいのだけど、心のどこかでタバコの煙か誤報か何かだろうなどと悠長に構えるところもあって、自分の防衛本能だか油断だかに、あらためてふりかえってびっくりしてしまう。そんな能天気さが伝わったのか同じ階のロシア人に、早く外に出ろ、パスポートを持てと急かされる。これ大火事になったら荷物がぜんぶ焼失するかもな、困ったなと思いながらざっと着替えて財布とスマホと身分証明書一式だけ持って階下に。すでにけっこうな人数がエントランスにいて、だいじょうぶかなと待機していると、見回りに行ってたらしい寮母のひとが戻ってくる。ある一人の学生が何もなかったのか、と聞くと「いや、何か料理していて、油が火の中に入ってしまったようだ нет, что-то готовили и масло попало в огонь」と言って、もう大丈夫だとのことで、途端にみなに安堵が広がる。まあ何もなくてよかった。でもすっかり疲弊してしまった。

頭がはたらくなったので、Amazon Primeでダウンロードしておいたアニエス・ヴァルダダゲレオタイプ』を観る。夢の話で終わるのがよかった。あと随所で見られるカメラ目線。フランス人監督によるフランスでつくったフランス映画だなという感じ。

2022/10/19

ついお金のことが気になって、これまでに何円換金して、いま手元にルーブルがいくらあって、いくらカードに預けていて、などと計算していたら夜遅くなった。あんまり気にしたくないのだけど、やっぱり初月は諸々の手続きで出費が多くて、今後の生活費だけでなく、アーカイブ調査で遠征したり映画上映やギャラリーを周ったり、長い生活のなかでのささやかな行楽だったりを考えると、どこかのタイミングで送金しないといけない。少しでも円高傾向になったら考えよう、そもそもルーブルがちょっと高いんだよな、などと頭のなかでぐるぐると考えてしまう。

そんなことより今日は、昨夜にひきつづきドムラジオで映画を観たのだったがこれがすごかった。ミハイル・カウフマン『春 Весной』(1929)というサイレント映画の上映だった。ジガ・ヴェルトフの実弟で、本作は1922年から1930年までキエフに所在したВУФКУ(全ウクライナ写真映画局)で制作された(ちなみに『カメラを持った男』も同年にВУФКУで撮影されている)。作品は吹雪の景色からはじまってだんだんと雪解けしていき、基本的には題名どおりの進行を見せていくのだけど、もちろんそんな単純ではない。冒頭から空撮で大地の変わる様子が映されると、つづいて強烈な速度のモンタージュで自然の変化による人間の生活の転換が示されていく。泥まみれの道を歩く人々、アイスを食べる子ども、農園を耕すトラクターのタイヤの回転、隊列をつくっている少年少女たちの顔顔顔、風に揺れる麦穂、スポーツ観戦する人たちの熱狂……などなど、たまにオーバーラップやコマ落としなどの技法やスチールを挟むなどしつつ、次々にドキュメンタリー的映像が示されていくのも面白いんだけど、まあそうした映像はYouTube上でもいちおう見ることはできる(Весной (1929) документальный фильм - YouTube)。なにがすごかったかというと、今回の上映に際してつくられた音響だ。一般的にサイレント映画は後から伴奏がつけられるもので、YouTube上にも本作は数本あがっていて、いくつかの伴奏のヴァリエーションが確認できる。で、ドムラジオでの上映の伴奏はАлексей Ретинский という作曲家が担当していたのだけど、まずびっくりしたのが、会場の最後方に本人がいて、上映にあわせてリアルタイムで生演奏していることだ。何の楽器だろうと思ったけど、ホームページによると、ガラスの鐘とカーヌーンというアラブ音楽の楽器らしい。その音は、観客の後方から響いて身体をゆさぶる(最初は気づかず、なんでこんなに身体の芯にくるような響きが出るのだろうと思っていた)。くわえて、前方のスクリーン両脇にもスピーカーが置いてあり、こちらからは後方でパソコンを操作して音を流しているようだ。つまり、平面的な映像の空間と立体的にデザインされた音の空間が組み合わさっているわけだ。めちゃめちゃアクースマティックな経験じゃないか……しかも、その音響もノイズというのかなんというのか、これまで聴いたことのない音で、これがいまの「現代音楽」なのかもしれないと、そして映画における音の位相というか場所というか、映像と音の組み合わせはとても面白く、映画の制作と上映の可能性はまだまだとても大きいのだと、すっかり感動してしまった。

そういえば例のごとく授業終わりから映画上映まで時間があったので、近場のカフェで資料読みをしていたのだけど、このカフェもよかった。Civil Coffee Barという店だった。Wi-Fiもあるし、大きめの瓶で水もサービスしてくれる。あとトイレがめちゃ綺麗。

2022/10/18

すっかり元気を失っていた。雨が降っているから……などの言い訳は雨続きが日常のペテルブルグでは厳禁もいいところ。まあ天候以外の理由があるといえばあるような気がする。おおまかにいって人間関係のことだ。悩みの種の大半は誰かとの軋轢にあるのが常だし、発想の萌芽も他者とのあいだにしか生まれない。でも面倒な人付き合いはほんとうに嫌な気持ちになる。

閑話休題。夜、ドムラジオというところで開かれる映画にかんするレクチャーを聞きに行った。月に一度のペースで行われる連続講義形式で、今回は2回目のようである。レクチャーをするのはЕвгений Майзельという映画批評家で、初耳だったけど『Сеанс』や『Искусство кино』なんかの映画雑誌にもけっこう寄稿しているみたい。で、今回の講義では、映画芸術における視覚の体制について話すとのことで、どんどん早口になるロシア語を十全に聞き取れた自信はまったくなくて、いいところ30%程度しかわからなかったのだけど、どうやら«видение»と«смотрение»を分けて、前者の方に重きを置いて、映画芸術における見ることを考えたいようだった。«видение»とは«принять»であり、個別的で、見ようと欲することであり、視覚に現れる動きや明滅だと言っていた(と思う)。アヴァンギャルドな映像作品はカメラという科学技術としての見ることを考えるための最適な実験だとして、ジョーダン・ベルソンの『Samadhi』(1967)を紹介していた。また、質疑応答で、アヴァンギャルドな実験は世界の現象についてのフォルムとアンフォルムの探求だと言っていた(ような気がする)。あと、しきりにИскусство видеть - оно...と言っていて、視覚芸術についてまとまったことを言わんとしているのだろうけど(僕の理解が曖昧なのもあいまって)繰り返すたびに何が言いたいのかわからなくなっていった。と、あやふやな理解しかできなくて情けないばかりだけど、連続講義の終わりくらいにはもうちょっと聞き取れるようになっているだろうか。

2022/10/16

昼前から隣室の人たちが外からお客さんを呼んで共用キッチンでランチパーティをしている。話し声だとかは全然気にならないのだけど、キッチンとトイレが近かったり、冷蔵庫にものをとりにいったりするのに気を遣うし、そういう気配りが過剰っぽいのも自分で嫌になるのでなるべく部屋で過ごしていた。午後は今回の滞在でできたロシア人の友人に連れられて中心部に出る。宗教史博物館というのに行った。べつに趣味というわけではないのでなんとなく観てまわってみていると、どうも展示の半分くらいは仏教関連で、タイの寺院を模したっぽい簡素な体験ゾーンもあった。青白い照明が配置されていて、なんか妙なオリエンタリズムだなという感覚になった。あと、ロシア正教のイコンがたくさん展示されているフロアのすぐそばにソ連後期の反宗教的なモチーフの展示があって、そこに宇宙飛行士が遊泳しているデザインに「Бога Нет!」という文字がデカデカとあるポスターが展示されているのは面白かった。ウラジーミル・メンシコフという作家の作品らしい。日本の展示もあって、大黒天とかが展示されていて、いろいろ聞かれたけど、頭の中には神仏習合という言葉があるくらいで日本語でもうまく話せる自信がない。ロシアにせよ日本にせよ宗教史ってあんまり詳しくなくて、ちゃんと知っておくべきだよなと反省した。

夜のペテルブルグを歩く。夜景が綺麗、でもすっかり寒くなってきた。今日はなんだか風が強い、と思ったらРСЧС(ロシアの緊急速報みたいな感じのシステム)からSMSで、明日は最大風速で18メートル、沿岸部は23メートルになりますとメッセージがきた。どんなもんかいなと調べてみたら人が立ってられなくなる可能性もあるくらいの強風らしい。災害じゃないか。外を出歩けるのかしら。

2022/10/15

日本語がずいぶんと流暢なロシア人にアテンドされてГатчинаという町に行く。彼の生まれ故郷とのことだ。ペテルブルグの中心から電車に乗って1時間くらいのところにある。車窓から見える風景、ちょっと中心を離れると田舎だよねと言ったら、モスクワとペテルブルグ以外のロシアはどこもこんな感じだよと笑っていた。この町にはガッチナ宮殿というまあまあでかい宮殿と、かなり大きな庭園がある。広々とした庭園を歩き回って、これまた巨大な湖を見て、ロシアの土地の規模の大きさにちょっと圧倒される。白樺の木がたくさん生えていて、これが白樺か……とアホみたいな感想が思い浮かぶ。белкаはリスという意味のほか、酒に酔い潰れて前後不覚になっている人を指すこともできるということを、どんな脈絡かは忘れたが教えてもらう。庭園を外れると広めの車道にぶちあたり、なんだか南大沢みたいな感じだなと頭が勝手に連想する。よくよく見ればずいぶん違うのだけど、おおまかに似ているところがあるのも確かなような気がする。詳細をはぶいておおざっぱに類似を捉えてしまうのは不思議な能力だ。たぶん写真とかで見て、南大沢とГатчинаが似ているなと思わなかったのではないか。いずれもの町、景色の中を歩いたことがあったから、そういう振る舞いのうちに類似を見たということなのだと思う。耳のそばを通り過ぎる車両の走行音とか、風の強さやちょっと薄暗い曇り空の感じとか、規則的に並ぶ街灯の影とか、そういうものも合わさっての類似性の感覚なのだと思う。18世紀、19世紀の環境としての宮殿と庭園を歩いたあと、自動車がすぐそばを走行するコンクリートの車道のうえを歩くという20世紀、21世紀的な歩行へと、わたしの身体はおよそ3世紀ぶんくらいの時間を振る舞いにおいてタイムスリップした……とかなんとか。

2022/10/14

安かろう悪かろうというのは言い得て妙で、ちょっと前に買ったシリアルが恐ろしく不味くて細かくちぎった段ボールみたいだと思っていたのだったがそれも4日前ほどで、今朝はそこまで気にならないくらいだったどころかむしろ良いんじゃないかとさえ感じた。牛乳の量が味の決め手だ。なんでも慣れれば良いのだ、この寮生活にも時間通りに来ないバスにもロシア語のリスニングにも。

ところで今日は映画デーだ。午後から2本、Лендокというスタジオに併設するシアターで、新旧国内外問わずさまざまな作品を上映している。作品によって微妙に異なるけどチケット代も日本に比べればずいぶん安い。上映会場は吊るされた大きめのスクリーンにプロジェクターで投影するという設備で、まあ映画館というにはお粗末だけどそんなに悪くはない感じ。1本目はヤコブ・プロタザーノフ『持参金のない花嫁Бесприданница』(1936)だ。アレクサンドル・オストロフスキーの戯曲が基になっているとのことで、まあ典型的な文学映画だと思う。ちゃんと観ようとおもったけど、トーキーになって間もないソ連映画はほんとうに音響がひどい。なんかの論文でヤンポリスキーが、ソ連映画の音響技術がすごいひどくて70年代くらいまで同録も普通しなかったと書いてあったのを思い出した。ただでさえリスニング能力がないのにセリフを聞いているだけでも辛い感じで途中から完全に上の空だった。クライマックスで振られた男が花嫁を撃ち殺すのだが、その直前で身投げしようとしてできない花嫁の表情が良いなと思った。

2本目はジガ・ヴェルトフ『ロシア内戦の歴史 История гражданской войны』(1921)で、どうも制作当時にクローズドで一度上映されただけでそれから100年近くフィルムが失われたと思われていたらしい(cf.«Затерянная фильма»: реконструкция фильма «История гражданской войны» Вертова)。このたび発見、修復されてロシアで公開されることとなったとのことで、そのタイミングに立ち会えたというだけでも嬉しい。内容としてはロシア内戦の記録映像をテーマごとに見せていくというもので、当時はいわゆるニュース映画という意味合いがあったものだ。ヴェルトフ的と形容されるような激しいモンタージュはなく、けっこう丁寧に字幕の説明が入る。とはいえ時系列に沿っているわけではないし、途中で手書きの地図を用いた映像が挟まって、ボリシェヴィキに攻め入られて後退していくチェコスロヴァキアの軍隊の前線が示されるのだけど、その前線をヴェルトフ本人なのかわからない手がなぞっていくのが唐突でおもしろかった。あとカメラが向けられているのを多くの被写体が意識していて、中には手を振ったり笑顔を向ける兵士も少なくない。駐屯地かどこかで髭剃りや髪切りをしている様子を撮った映像で、画角に入り込んでしまったと慌てる少年兵の顔が写ったりしていた。記録映像といってもずいぶん作為や演出(被写体の側の演技・意識もふくむ)があったはずで、翻って考えると、タルコフスキーが同じように戦争を撮影した大量の記録映像のフィルムリールを見て、ようやく真実が撮られた映像に出会ったと興奮したというエピソードの意義はやっぱりかなり大きいように思う。ドキュメンタリー映像を使う際に用いられる「真実」などの語で言われようとしている何かは、カメラと被写体=俳優との関係において考えられているのではないだろうか。

1本目と2本目のあいだに時間があったので、ふたたびAmazonプライムを観ようと試みる。いくつかのVPNなどを試してみて、ようやくスムーズに観ることができた!ダウンロードもできるようになったので、カフェのWi-Fiなどを使えば、わざわざポケットWi-Fiを契約する必要もないかもしれない。『佐々木、イン、マイマイン』(2020)を観る。かなり面白かった。詳しく説明したりショットをはさまなくても、佐々木ならああするだろうなと観客を説得できるキャラクターというのはすごいと思う。監督もずいぶん若いんだなあとちょっと調べたら同作のヒロインと結婚していた。なんだそりゃ。