2022/10/10

だらだらと過ごした日が続いたけど今日は朝からリモートで日本と仕事が詰まっていたので授業は休み。トークでの登壇とミーティングが連続してあってさすがに疲れる。異国での生活で蓄積する疲労とは別種の、日本でよく感じていた類の感覚で、日本食を食べたりとか日本語で会話することよりも日常的な生活の実感を得たような気がする。味覚や嗅覚などの五感ではなく、ピリピリと静電気のように張り詰める緊張と疲労の肌感覚が日々の暮らしの底流にあるのかもしれない。実際、たとえば食事の変化がなにか自分に大きな影響を及ぼしているという感じはあまりない。一日6パックくらい食べていた納豆がまったく食べられなくなっても、まあそういうものだろうと無意識に割り切っているように思う。まったく代替物にはならないがгречкаが好きで、これが胃を満足させている。まあ一週間そこらしか経っていないのだから、五感が云々などと声高に言うのもふざけた話だという気がする。半年くらい経ったら納豆が食べたくて冷蔵庫の前で泣いてしまうかもしれない。いや、むしろひさびさに納豆を食べたときに感動するのだろうか。至極どうでもいい話のようだけど、あまり自分と食の関係についてこれまで意識的ではなかったので、ちょっと考えるに値するところかもしれない。思えば十代後半のころから食事をほとんど栄養分で見ていた。そういう物質的なところで食とかかわっていて、嗜好品みたいな観点で捉えていたのはラーメンのみ。ここ2、3年でラーメン以外についての食も、ようやく嗜好として実感をもって考えられるようになったような気がする。コロナ禍で、夜にお店をやらなくなって、酒を飲まない食事の楽しみを探すようになったのがきっかけだったっけ。なんだかずいぶんと貧しい食へのかかわり方を長らくしてきたみたいだ。システマティックに食とかかわることは、生きることの余剰的な贅沢を無視して、交換と消費のシステムに自分を過剰に位置づけることでマゾヒスティックな快を得ることである。知らんけど。ところで、ここまでの自由連想的な文章をロシア語で書けますか書けません。

ニュースを見るとやっぱり剣呑な雰囲気が増している。悲しいというべきか心苦しいというべきか、よくわからないんだけど、とにかく胸下に重いものが乗っかる感覚がどうしようもない。爆撃されたキーウ、そこで暮らしている人々について、同じく、普通に暮らしている人もいるペテルブルグから考えている。インフラ施設を攻撃するというのは、少なくとも政治的な調停のチャンネルを探す段階にはまったくないという意味だと思う。もしもいま自分のいる町が爆撃されたら、というのは単なる感傷や感情移入ではなく、身近に迫りつつある具体的な危機である。

そういえば初めてこちらでエナジードリンクを飲んだ。頭に妙な感覚が生まれた。ハイになるというわけではない。この危険な飲み物に慣れてしまってはいけないと思う。