2022/11/01

すっかり更新が滞っていた。体調を崩して引きこもって休んでいたからだ。でも実際は、失調のそもそもの原因は二日酔いで、そのあとで人間関係上の問題が起きて疲弊して、そうして最後に身体の不調につながった。まあそういうこともある。ちょうど異国について一ヶ月が経ち、気張っていた心に緩みも出てきたということにしておこう。そんな話を日本にいる友人知人たちとメールなどで報告しあっていた。

寮にいてもやることがないが、そもそもとくにやる気も起きない。そういうときはまずは映画を観るに限る。松居大吾監督『ちょっと思い出しただけ』と東陽一監督『うれしはずかし物語』をAmazonプライムで。『ちょっと思い出しただけ』は、時系列の構成以外に何か目につくところあるかなと思って見ていたけどずいぶんさらっと終わってしまった。ショットも空間ではなく点か、せいぜい面で捉えているような撮り方って感じ。主演俳優の立ち居振る舞いはよかった。とくに池松壮亮はさすがにすごい俳優だと思った。『うれしはずかし物語』はバブル期日本の多幸感を皮肉るようなコメディで、好みだった。三国の人物造形が巧みで、一方では若い娘にだらしなく夢中になるスケベな中年、他方では妻との粋なかけあいで家庭という幸福な幻想を維持する夫。ああいう役の振れ幅を一作品内で両立させるのは実はすごいのではないかと感心した。後者の演出がちゃんとしてたからこそ、最後の方の若きボーイフレンドとの議論が単なるおかしな笑い話にならないわけだ。あと、こういう不倫モノをいま撮って、こんなふうにさらっとシリアスな展開をいれられる監督がいるだろうか。たとえば家庭内での喧嘩シーンとかがさらっと入って、セリフに中年男性としての生きにくさが真面目に吐露される。これが職人技である。

ところで失調の一因である人間関係の軋轢というのはロシアでの出来事であり、その相手に対する呪詛じみた言葉が頭のなかを駆け巡る。身体から毒素を抜かないといけないので、ひとまず書いて冷静になることを試みた。日本語で書いても伝わらない相手なので、まずは英語で書く。その段階で、暴れ回る日本語の回路が遮断され、呼びかけ口調となり、英語特有の皮肉めいた言い回しで伝えたいことが整理される。別に英語が達者でもなければイギリス文化に浸ったこともないのだけど、なるべくいやらしい言い回しを考えたつもりだ。そのあとで、その相手には伝わらないが周囲に伝えるためにロシア語に直していく。皮肉めいた文言を削り、なるべく淡々と、みずからの置かれた立場を訴えるような文章をつくっていく。いずれも1500wordsくらいになった。近いうちに使用されるかもしれない。

2022/10/28

こちらに来て驚いたことの一つに、寮の共同部屋の人たちでチャットグループをつくるということがある。フロアによってはつくっていないところもあるのかもしれないが、自分のところ以外でも同じようにグループをつくっているのを確認した。冷蔵庫の分担や掃除の報告、ルール決めなど、チャットで意見交換するためのものだ。寮からつくるように言われているわけではもちろんなく、対面のときからそういうグループに入ることがローカルルールとして決められていて、別に悪いこととは思わないが、共同体というものの相互監視システムは人の善意で自発的に生まれるものなのだなと目の当たりにした気持ちだ。あと、同じフロアに内政干渉的な人がいる場合、このシステムは非常に厄介で、というのもせいぜい3〜5人程度しかいない小さな共同体では権力を単純行使しやすいからだけど、まあつまり自分はいま、そういうちょっと厄介な正義感をもった人のいる空間で暮らしているということだ。

きょうもきょうとてちょっとした仕事で日本と連絡をとる時間が多かった。夜は以前に店で食べたソリャンカをつくってみた。おいしくできた。レシピを調べると、まあ要するにコンソメベースのスープで、具材も幅広くアレンジができそうだ。毎日の食事の選択肢を増やすのは、日常がだれることなく自分に飽きがこないようにするためのライフハックだと思う。魚のホイル焼きとかつくってみたい。あと、スーパーにデカいタンの肉が塊で売られていて、ああこれは使ってみたいとも思った。

2022/10/27

少しずつ生活に慣れてくるとあれもやりたいこれもやりたいと欲が出てくる程度には心にゆとりというか、異国の地で日々を生き抜くためにやみくもに使っていた認知リソースの制御ができるようになってきて、思考に「遊び」の時間が生まれてくる。具体的にいうと、道を歩きながら頭のなかでもしもこの滞在で写真集をつくるとしたらどんなものになるだろうかと妄想する、というようなことだ。いろいろなあたらしい知識が習慣となりつつある、そんな静かなプロセスを自分の身に感じている。

今日もまたПослание к человеку 2022のプログラムで4つの映画作品を観る。いままではЛендокだったけど今日はДом Киноという映画館。一つは実験映画のプログラムで、アルゼンチンのPablo Martín Weberによる«Homenaje a la obra de Philip Henry Gosse» (2020)と、«Luto» (2021)、そして«PAST PERFECT» (2019)というポルトガルのGuito Jacques Georgesの作品だ。その名の通りフィリップ・ヘンリー・ゴスへのオマージュとしてつくられた一つ目の作品がけっこうおもしろかった。すべての生物の起源そのものに時間構造が含まれているという発想に、見えているすべてが生物の全体なのか(インターネットの情報とおなじく!)情報の集積なのか、という素朴な疑問を組み合わせたような構造だった。もう一つは、Антуан Каттин, «Праздники» (2022)という作品。サンクトペテルブルグの主要な7つの祝日を4人の市民の視点からみるというもので、その4人にもカメラを持たせて、自撮りでの映像も多く作品にはいっている。作品で扱われている祝日は2022年の新年まで。豪勢な花火やプーチンのテレビ演説、街の喧騒の中での逮捕、警察による暴力、兵役でウクライナ戦線に向かう男……と盛りだくさんで、監督の挨拶によれば構想から制作まで15年くらいかかったらしい。上映前の挨拶をМиру Мирと締めくくり会場からは拍手が起こって、上映後のアフタートークでは会場からの質問がやまず、閉場後もラウンジで監督を囲んで質疑応答が続いていたのが印象的だった。ペテルブルグでペテルブルグの街の映画を観ている、という個人的な感慨も深かった。

2022/10/26

きょうは授業と日本とのリモート打ち合わせなどで日中埋まっていた。とくに特筆すべき発見はない、と思う。本当はこういう何でもない日常のささいな生活のディテールを書き留めることのほうがおもしろいのではないかという気もする。すぐ忘れてしまうし。たとえば、きょう、学生用の定期券のようなもの(БСК: Бесконтактная студенческая проездная карта)を手に入れたこととか? あるいは、おとといスーパーで買った菓子パンの残りをリュックサックに入れっぱなしで忘れていて、昼飯時にふいに見つけたこととかだろうか。

そういえば、書きながら思い出した、きょうは寮のシーツ交換の日で、朝早くに担当のところに行こうとしたら、寮母さんにまだやってないよと言われたので、何時からなら換えてもらえますかと訊いたときにどこからか担当のおばちゃんがやって来て、いいからこっちにおいでおいでと促される。どうしたの、授業が早いのか、何時に出るんだ。まああと20分後くらいかな。おやまあ、早く持っていきな、ほら。朝早くからありがとうね。いいから行きな、走った走った! と、まあこんなふうなやりとりがあったのだった。

夜は日本語を学んでいるという当地のロシア人大学生たちと交流する機会があった。それぞれさまざまな関心領域と学習のきっかけがあったが、やっぱりマンガやアニメは最初に日本に興味を持つおおきなフックとなっているようだった。チェンソーマンのアニメも見ているようで、それで話が合ってちょっと嬉しかった。あと、南北朝時代に興味があるというひとがいて、理由を尋ねると、同時期に二つの王朝と二人の天皇がいるというのを知って衝撃を受けたからだとのこと。そういえば南北朝正閏論とかあったなと思いつつ、いまの日本ではどういうふうにこうした歴史に折り合いをつけている(いない)のだろうかと知りたくなった。このままでは知りたくなっただけだが、彼にはまた会う機会がありそうなので、少しでも新しい研究を調べて話せるようになっておきたい。

2022/10/25

今日も今日とて寒い。めずらしく太陽が出ている日が続いているが、雲がないぶん晴れのほうが気温が下がるし、今日は夜から雨が降ったのでよりいっそう冷えこんだ。

今日も今日とて映画を観る。«Сиротки»(Реж. Алексей Суховей)という孤児たちを追った群像劇テイストの180分ほど作品で、4部構成になっている。何人かの孤児を捉えているが、あきらかにサーシャという青年が主人公格として扱われている。結婚したと思ったらすぐに破綻する男で、しばしば嘘をつくようなどうしようもないけど憎めない感じ。疎遠な兄姉を探してКвартираを聞き込みしてまわり、ついに腹違い(?)の兄に電話するのだが、受話器越しに伝える会いたい気持ちが伝わらずすれちがってしまう場面は緊迫感があった。

映画を観終わり、いざ帰ろうとするが目当ての路線のバスが待てど暮らせどまったく来ない。おおよそ10分ごとに来るはずで、一本来ないことままあるが、二本分の時間丸々待っても、路線の違うバスばかりが来て、周りにいた人がどんどん乗って去って、新しい人が来て、その人までいなくなっていく。雨がしんしんと降り、足元の寒さは耐えがたく、まだ来ないのかとスマホで時刻表を確認する指先はそろそろ割れそうになり、いたずらにバス停一個分歩くなどして、いよいよもう歩いて帰った方が早いのではないかかと考えたころにようやく来た。40分遅れといったところで、バスの添乗員さんに、なんでこんなに遅れたんですか、と聞いてみると、こんなに? そう思うか? とキレ気味に返される。そうだよ、実際遅れたでしょうと(疲労のせいだけど)気圧されずに返すと無視された。

中心部の方を通る路線で、そのあたりからだんだん人が増えてきて、夜遅い時間にしてはめずらしくバスは満員になる。隣に座り合わせた初老の男が、いったい何やってたんだ、一時間も待ったぞと静かに文句を言っていた。今度も添乗員さんは語気を荒げて、モスクワ大通りが通行止めだったんだ、それだけだ、文句を言うなと応戦する。そうだったのかと疑問が氷解したが、自分にも説明してくれてもよかったじゃないか。ロシア語で説明してもわからないだろうと思われたか。僕よりも20分以上待っただろう隣人に同情しつつ、凍えた指先をこすりあわせていた。

2022/10/24

なんだか急激に寒くなった。どうやら体感だけでなく実測値でも氷点下となったらしい。0度を下回ると、まず地面のコンクリが冷えて足先から体温が奪われる。風の冷たさに足がすぐに凍えてしまう。気をつけないと霜焼けになるなあと思いつつ、まだ10月だということを考えるとちょっと恐ろしいことだ。例年通りなら、4月くらいまではおおむね氷点下を体感する日々が続くことになるはずだ。どうやってこの長い冬の季節を生き延びれば良いのかまったくわからない。

今日はПослание к человеку 2022という国際映画祭の作品を観るためにЛендокに行く。こちらに来て調べるまでぜんぜん知らなかったけど、今年で32回目を迎えるようで、今回は短編長編あわせて142作品も上映するとのこと。ウルス・フィッシャーによる彫刻作品のモスクワ設置をめぐる問題をあつかった実験的な短編"Триптих"(Реж. Яна Осман)ボリショイ劇場人気のペアであるウラディスラフ・ラントラートフとマリア・アレクサンドロワに密着した"Временные ограничения"(Реж. Ксения Гапченко)カムチャッカ半島からさらに東に位置するベーリング島からモスクワに行く一人の少年を追った"Уйти в остров"(Реж. Яна Чиж)、ユリエヴィッツに住む少年少女の青春を映した"Это течет в моей крови"(Реж. Маша Черная)と4本立て続けに観てさすがに疲れる。個人的なハイライトは、ベーリング島の強風で揺れる小さな家の内部の音。あと、2021年夏のユリエヴィッツにいて、自分の母親はレジ打ちをしても1ヶ月の給料が180ドルで、稼ぐためにロシア特殊作戦軍に入るんだ、誰かを殺すためではなく守るために行くんだと、友人たちの説得を振り切りながら言葉を継いでいるシーンも心に残った。当時の映像で、その少年が、はっきりと、ウクライナとの戦争があるんだと、2014年のウクライナ東部紛争以来の出来事について触れていて、ちょっと肝が冷える思いをした。直接的に目下の時局についてどうこう扱っているわけではもちろんないが、2021年の時点でこういう作品を撮って、今年のロシアで開催される映画祭で本作を上映しようと決めた運営と制作陣には敬意しかない。そして戦局や政治状況が今後どうなるのかも、やはりまったくわからないというのが正直なところだ。そういえばノルド・オスト事件で、外国人観光客ふくむ大勢の人間が死亡したのが今日からちょうど20年前のことだ。チェチェン紛争への反対を表明すべく劇場を占拠した武装勢力を鎮圧するために、当局の特殊部隊が使用した神経ガスによって多くの犠牲が生まれたという悲劇。二度と起こらないでほしいが、もしも類似の事件が起こるとしたら、やはり今なのだろう。いやはや。

2022/10/23

土日とずいぶんとだらけていたと思う。長い生活になるのだから休みも大切だと自分に言い聞かせる。日曜に行こうと思っていたヴィクトル・マージンのレクチャーは早々に予約を締め切っていた。

公園でも散歩でもするかと思って適当に目星をつけたら墓地だった。はじめてちゃんと十字架の墓を見た。俳優や建築家などの有名人のお墓があるエリアと一般人のお墓があるエリアに分かれており、ずいぶんと広かった。前者には大きな石造が置かれているなど立派なお墓が多かった。あと、いずれのエリアにも故人の写真がけっこう飾られていたのには驚いた。19世紀に死没したと記されているお墓も多く、この土の中に2世紀近く眠っているのかと思うとちょっと怖くなる。日本のお墓を見てもあまりピンとこなかったけど、リビングデッド的な想像力はこの土の感じから来るのだろうとなんとなく思う。掘ったらどうなるのだろうと邪な欲望が生まれてくるのもわかる気がした。そういう魅力がたしかにある。